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日本絵画!大正〜昭和にかけて活躍した個性豊かな画家たちを紹介!

日本絵画!大正〜昭和にかけて活躍した個性豊かな画家たちを紹介!



mars
どうもこんにちわ、画家のマルスです。

 

前回紹介しきれなかった画家たちを、わかりやすく解説していきたいと思います。

 

この時代の背景や他の画家たちを知りたい人はこちらの記事も読んでね。

 

大正〜昭和の個性豊かな画家たち!

 

上村松園(うえむらしょうえん) 1875〜1949年

 

京都府画学校に入学し、四条派に学びます。

 

彼は日本女性の美しさを捉えた作品で早くから評価されました。

 

生涯を通して多くの清楚な美人女性画を描きました。

 

焔(ほのお)

 

 

作者 上村松園
作品名 「焔」
製作年 1918年
技法 絹本着色
サイズ 190.9x91.8cm
所蔵 東京国立博物館

 

 

「源氏物語」に登場する六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の生霊に着想を得た、村上松園の異色作になります。

 

松園はこの作品を「数多くある絵のうちの、たった一枚の凄艶(ゾッとするほど艶かしいこと)な絵ですがあります」と言っています。

 

速水御舟(はやみぎょしゅう) 1894〜1935年

 

14歳で松本楓湖に入門し、兄弟子の今村紫紅から影響を受けます。

 

27年という短い期間に色々と作風を変えて、新しい日本画を開拓し続けました。

 

炎舞(えんぶ)

 

 

作者 速水御舟
作品名 「炎舞」 重文
製作年 1925年
技法 絹本着色
サイズ 120.3x53.8cm
所蔵 山種美術館

 

 

本作は、御舟の作品の「京の舞妓」のような細密描写の時代を経て、琳派の装飾的構成へと向かう転換期に描いた作品になります。

 

「京の舞妓」を描いた5年後に本作を描きました。

 

写実的でありながら、抽象的で幻想性も感じられる不思議な画風ですね。

 

小村雪岱(こむらせったい) 1887~1940年

 

東京美術学校在学中に小説家の泉鏡花と出会い、雪岱の号をもらいます。

 

雪岱は、現代で言うグラフィックデザイナーに近いですね。

 

パッケージデザインや装丁、舞台美術などで活躍しました。

 

泉鏡花の作品の装丁をはじめ、挿絵なども手がけました。

 

青柳(あおやぎ) 

 

 

作者 小村雪岱
作品名 「青柳」
製作年 1924年
技法 絹本着色
サイズ 45.0x35.0cm
所蔵 埼玉県立近代美術館

 

 

本作は泉鏡花の小説の「日本橋」の見返しに描いた絵を発展させたものになります。

 

人物は描かず、三味線や鼓などを残して人がいる気配を感じさせています。

 

橋口五葉(はしぐちごよう) 1880~1921年

 

19歳の時に鹿児島県から上京、東京美術学校卒業後、装丁やデザインの仕事をしながら新版画を制作しました。

 

夏目漱石の「吾輩ハ猫デアル」の装丁でも有名です。

 

五葉はアール・ヌーボー風の表現を取り入れた美人画やを多く描き「大正の歌麿」とよばれました。

 

髪梳ける女(かみすけるおんな)

 

 

作者 橋口五葉
作品名 「髪梳ける女」
製作年 1920年
技法 木版
サイズ 43.8x32.2cm

 

 

本作は浮世絵の伝統を引き継ぐ木版画。

 

大正時代に新版画(衰退していた浮世絵の技術を受け継ぎ、新たな木版画を生み出そうとしていた動きの中で生まれた)として人気を集めました。

 

川端龍子(かわばたりゅうし) 1885~1966年

 

龍子は最初、洋画を学びましたがアメリカ旅行後に日本画に転向します。

 

院展に初入選しますが、彼の絵は独創的すぎて「会場芸術(展覧会場で多くの人に見てもらうことだけを意識した作品)」と批判されます。

 

しかし龍子は自分の独自の表現を貫き通します。

 

香炉峰(こうろほう)

 

 

作者 川端龍子

作品名 「香炉峰」

製作年 1939年

技法 紙本着色

サイズ 六曲一隻/242.4x736.5cm

所蔵 大田区立龍子記念館

 

 

本作は、1937年に始まった日中戦争に画家として従軍した、川端龍子本人の経験がもとになっています。

 

偵察機に同乗して中国の香炉峰の上空を飛行している様子が描かれています。

 

操縦者として描かれているのは、龍子本人だといわれています。

 

7mを超える大画面に綺麗な景色と飛行機のスピード感を同時に描こうとした結果、飛行機が半ば透けるという意表をつく表現になっています。

 

横山大観(よこやまたいかん) 1868~1958年

 

近代日本絵画の代表格といえば横山大観でしょう。

 

大観に大きな影響をあたえたのが、東京美術学校に大観が入学したときの美術学校の校長先生だった、岡倉天心です。

 

のちに天心が美術学校を追放されると、同校の教職にあった大観も辞職します。

 

その後、天心が設立した日本美術院に大観とともに参加したのが、親友の菱田春草(ひしだしゅんそう)で、二人で「朦朧体(黒い線を使わずに色の線を使う)」を生み出しました。

 

しかし伝統的な黒線を使わない朦朧体は、日本では受け入れられず批判されます。

 

しかし天心のすすめで春草とともに、カルカッタ、ニューヨーク、パリ、ロンドンなどで個展を開くと評価され、その評判が逆輸入のかたちで日本での評価も高まりました。

 

帰国後は文展の審査員になるほど画壇の中心人物になります。

 

その後日本美術院を再興し、1930年にはローマで日本美術の展覧会を開き、横山大観の名は不動のものとなります。

 

或る日の太平洋(あるひのたいへいよう)

 

 

作者 横山大観

作品名 「或い日の太平洋」

製作年 1952年

技法 紙本着色

サイズ 135.0x68.5cm

所蔵 東京国立近代美術館

 

 

「富士は、いついかなる時も美しい、それは無窮の姿だからだ、私の芸術もその無窮を追う。」と語った横山大観。

 

その大観が1951年サンフランシスコ講和条約の調印にヒントを得て、戦後日本と日本画壇の飛躍を描いたのが本作品になります。

 

84歳の晩年の作品です。

 

横山大観の画風の変化!

 

初期の正統派の日本画に始まり、朦朧体を経て、欧米外遊後は「新光琳派」ともよばれた琳派風の画風にも変わっていきます。

 

無我(むが) 1897年

 

 

作者 横山大観

作品名 「無我」

製作年 1897年

所蔵 東京国立博物館

 

 

樹間の月(じゅかんのつき) 1904〜05年

 

 

作者 横山大観

作品名 「樹間の月」

製作年 1904〜05年

技法 絹本墨画着色

サイズ 75.8〜51.2cm

所蔵 ボストン美術館

 

 

雲中富士(うんちゅうふじ) 1913年

 

 

 

作者 横山大観

作品名 「雲中富士」

製作年 1913年

技法 絹本金地着色

サイズ 六曲一双/187.2x416.3cm

 

 

岡本太郎(おかもとたろう) 1911〜96年

 

岡本太郎は漫画家の岡本一平と歌人で小説家の岡本かのこの間に生まれます。

 

18歳からパリに移り住み、思索を深めて「職業は人間」だと豪語していました。

 

戦後は日本を拠点にしてジャンルにも権力にもとらわれずに活動を続けました。

 

明日の神話

 

 

 

 

本作は1968年のメキシコ・オリンピックに向けて開業予定だったホテルの壁画として制作されたものです。

1970年の大阪万博の「太陽の塔」の製作と同時進行で制作します。

彼は何度もメキシコに足を運び1年がかりで完成させます。

しかし開業前にホテルは倒産してしまい壁画は行方不明になってしまいます。

その後、は2003年にメキシコの資材置き場で発見され、ずっと探し続けていた太郎のパートナーだった岡本敏子らによって日本に移送され、修復されました。

この作品は左から右へ時間が流れ、中央で原爆が爆発し、それでも人々は滅びずに生き続けるという意味があると言われます。

 

 

 

 

渋谷駅のJRと京王井の頭線との連絡通路に垣久設置された「明日の神話」

 

まとめ

 

みなさんどうでしたか?

 

ほんと様々な個性豊かな画家たちがいましたね。

 

画家本人が個性があるので作品も個性のあるすごい作品ができるんですね。

 

最後まで読んでくれてありがとう。

 

ではまた別の記事でお会いしましょう。

 

mars
またね~
参考資料



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