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日本絵画!江戸時代中期の美術作品や有名画家たちを紹介!

日本絵画!江戸時代中期の美術作品や有名画家たちを紹介!



mars
どうもこんにちわ、画家のマルスです。

 

今回は江戸時代の中期の美術作品や、個性豊かな画家たち、時代背景などを解説していきたいと思います。

 

この時代の前の江戸時代初期の美術作品が知りたければ、こちらの記事を読んでください。

 

江戸時代中期はどのような時代だったのか!

 

平和な世の中になり、個性豊かな絵師たちが誕生!

 

江戸時代中期は18世紀を中心に、第5代将軍徳川綱吉の治世の1680年代から、第11代将軍家斉の治世初期1800年ころまでです。

 

この時代は、第8大将軍吉宗にる享保の改革や、老中の松平定信が主導した、寛政の改革などが起こった、社会の変動期でした。

 

その一方で、その前の第4代将軍の家綱による、殉死や人質などが禁止されて、それまで続いた戦国の世の中が終わり、平和な社会が訪れました。

 

平和な世の中になったことにより、町人層が文化の中心となり、多くの絵師たちが誕生しました。

 

京都と並んで江戸も文化の中心になる!

 

それまでの経済の中心は京都でしたが、江戸でも町人層が経済力をつけ、新しい文化の動きが盛んになり、浮世絵などの庶民向けの芸術が流行しました。

 

中国の宮廷画家!沈南蘋(しんなんびん)が来日する!

 

徳川吉宗の要請に答えるかたちで、清朝から派遣されて1731年に来日。

 

多くの絵師に影響を与えました。

 

南画!誕生!

 

中国の文人画の影響を受けた日本の南画(文人画)が誕生し、中国文化に憧れた人達が盛んに描きました。

 

中国では知識人である官僚が描く文人画ですが、それとは異なり、日本では職業画家や町人が描いた絵も文人画とよばれました。

 

浮世絵が流行する!

 

木版多色摺りが開発され、時代の流行や風俗などを描く、浮世絵が大量生産されるようになりました。

 

とくに美人画や役者絵などが人気を集めました。

 

江戸時代中期の絵師たちとその作品たち!

 

独学の天才!円山応挙(まるやまおうきょ) 1733~95年

 

かれは農家の生まれで、地方出身の奉公人でした。

 

狩野派や琳派の画風をみにつけた絵師に学んだとも言われていますが、彼の画風は、ほぼ独学で身につけました。

 

藤花図屏風(ふじはなずびょうぶ)

 

 


作者 円山応挙
作品名 「藤花図屏風」 右集 重文
製作年 1776年
技法 紙本金地着色
サイズ 六曲一双 各156.0x359.2cm
所蔵 根津美術館

 

 

やまと絵(着色画)と漢画(水墨画)という全く違う技法うを、併用して使っているにもかかわらず、違和感がないのが、応挙の腕の凄さですね。

 

天涯孤独の放浪絵師!曾我蕭白(そがしょうはく) 1730~81年

 

曾我蕭白は、京都の丹波屋という染物屋に生まれたと言われています。

 

しかし10代の頃に家族をなくしてしまい、店は潰れて17才で旅に出ます。

 

京都や三重、兵庫など転々としながら絵を描く生活を、30代まで続けました。

 

大衆に人気のあった応挙とは対照的で、強烈でマニアックなファンが多くいました。

 

群仙図屏風(ぐんせんずびょうぶ)

 

 


作者 曾我蕭白
作品名 「群仙図屏風」 上が右集 下が左集 重文
製作年 1764年
技法 紙本着色
サイズ 六曲一双/各172.0x378.0cm
所蔵 文化庁

 

 

かれの絵は物凄く個性的です。

 

左右の集に描かれているのは、中国伝来の仙人4人ずつですが。

 

その顔は不気味にゆがみ、色は異常なほどカラフルで、自然な感じは何ひとつ感じさせません。

 

このような彼の奇抜な発想は、ごく一部の人の心をわしづかみにしました。

 

円山応挙の弟子!長沢芦雪(ながさわろせつ)    1754~99年

 

かれは円山応挙の弟子の中でも突出して個性がありました。

 

京都の下級武士の家の生まれで、絵師を志して円山応挙に入門しました。

 

最初は師匠の絵の画風を盗んで、彼の絵は応挙の絵にそっくりでしたが、やがて自分のスタイルを見つけると、大胆な彼の独自な画風が完成しました。

 

虎図襖(とらずふすま)

 

 

作者 長沢芦雪
作品名 「虎図襖」 重文
製作年 1786年
技法 紙本墨画
サイズ ろくめん/右二面各180.0x87.0cm 左四面各183.5x115.5cm

 

 

この絵は、応挙の代役として、和歌山県の無量寺に、派遣されて制作したものになります。

 

襖絵の裏には、子猫が魚を狙う場面が描かれています。

 

これは「虎も子猫も、狙われるものからすれば同じ猛獣である」という芦雪のユーモアです。

 

若冲の鶏と呼ばれた!伊藤若冲(いとうじゃくちゅう) 1716~1800年

 

彼の趣味は鳥の観察で、庭に鳥を放って写生を繰り返し、その飛躍感のある鳥の絵が人気を集め「若冲の鶏」と呼ばれるほどに、かれの得意な絵になりました。

 

動植綵絵(どうしょくさいえ)

 

 


作者 伊藤若冲
作品名 「動植綵絵」のうち「老松白凰図」
製作年 1765~66年頃
技法 絹本着色
サイズ 141.8x79.7cm
所蔵 宮内庁三の丸尚蔵館

 

 

作品名 「動植綵絵」のうち「群鶏図」
製作年 1761~65年 
技法 絹本着色
サイズ 142.1x79.5cm
所蔵 宮内庁三の丸尚蔵館

 

 

美人画の天才!喜多川歌麿(きたがわうたまろ) 1753~1806年

 

歌麿が町の女性を描くと、たちまちに有名になるので、モデルの志願者などが歌麿のところに多くおしかけたと言われます。

 

歌撰恋之部  物思恋(かせんこいのぶ ものおもうこい)

 

 

作者 喜多川歌麿
作品名 「歌撰恋之部  物思恋」
製作年 1793~94年頃
サイズ 大判錦絵/39.0x29.1cm

 

 

女性の恋心を描いたシリーズの「歌撰恋之部」のひとつ。

 

当時の江戸では、女性は結婚して子供ができると眉を剃り落とす習慣があったので、この絵の女性は既婚者だとわかります。

 

まとめ

 

みなさんどうでしたか?

 

江戸時代中期の美術をまとめると。

    1. 平和な世の中になったので、京都や江戸から個性豊かな絵師たちが、たくさん登場しました。
    2. 京都が経済の中心でしたが、江戸でも町人層が経済力をつけてきたので、京都と並び江戸も文化の中心になり、庶民向けの芸術が流行しました。
    3. 中国の沈南蘋が来日して、その写実的で細密な画風は、円山応挙や伊藤若冲などの多くの絵師たちに、大きな影響を与えました。
    4. 中国の文人画の影響を受けて、日本の南画(文人画)が生まれました。
    5. 木版多色摺りの登場で、浮世絵が大流行しましたね。

      絵画のその時の時代背景が分かると、すごく絵画を見るのが楽しくなりますよね。

       

      最後まで読んでくれて、ありがとうございました。

       

      また別の記事でお会いしましょう。

       

      mars
      またね〜
      参考資料



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