【ラファエロ・サンティ】の生涯と作品!どういう人物だったのか?代表作などを解説!
mars
どうもこんにちはマルスです。
今回はルネサンス時代の三大巨匠の一人「ラファエロ」 て知っていますか?
三大巨匠には、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ、 そしてラファエロの三人いました。
この三人の中でラファエロは、一番年下になります。
凄く男前で優しかったため、非常に女性にモテ、 自身もかなりの女好きだったようです。
彼女たちをモデルした肖像画が幾つも残っています。
うらやましいですね。
今回はそんなラファエロについて、 分かりやすく説明していきたいと思います。
【ラファエロの生い立ち】
ラファエロは1483年に、 ウルビーノの宮廷画家をしていた父のもとに生まれます。
幼い頃から父親の工房でデッサンなどを学んでいました。
そのため10歳の頃にはすでに、その才能を表していました。
ラファエロが10歳の時に描いた自画像。
8歳の時に母が亡くなり、さらに11歳で父を亡くします。
その後はペルジーノ工房に入門し、 ペルジーノに絵画を教わることになります。
ペルジーノの絵は華やかな色彩と優雅さが特徴で、 ラファエロの絵に見られる優雅さは、 このペルジーノの影響が大きかったのではないかと言われています 。
当時の工房では、 絵画や彫刻だけではなく家具や武器の製造や修理なども、 やっていました。
ラファエロはその天賦の才で、早くから頭角を表していき、 弱冠17歳でマスター資格を貰い独立します。
当時は独立すると師匠の下請けをしたり、 兄弟たちと注文を受けたりするのが一般的でしたが、 より高みを目指すラファエロは、 その4年後フィレンツェへと移住します。
【新天地フィレンツェにて、二人との出会い】
この地でラファエロは、 レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの活躍を目のあたりにすると、 その技術を真似、 自分の物にしもともとの自分の技術と混ぜ合わせ、 独自の芸術を生み出します。
ラファエロはレオナルドとミケランジェロの作品を、 何時間も立ったまま見て研究していたようです。
彼が影響を受けた中で、特にレオナルドの「スフマート」 技法は有名ですね。
スフマート技法とは、 輪郭を線で書かずにぼかして描く技法のことで、 レオナルドが輪郭は存在しないと言ってできた技法の事ですね。
他にも構図などでもレオナルドの影響を受けていました。
作者 ラファエロ・サンティ
作品名 「一角獣を抱く貴婦人」
製作年 1506年
所蔵 ボルゲーゼ美術館、ローマ
この構図はレオナルドの「モナリザ」に影響を受けています。
【ローマで最高傑作を残す】
その後1508年に教皇ユリウス二世に招かれローマに移住します 。
そこで教皇の命を受け、ヴァチカン宮殿の「署名の間」 に壁画を描きます。
作品名 ラファエロ・サンティ
作品名 「アテネの学童」
製作年 1509〜10年
所蔵 ヴァチカン宮殿「署名の間」
この画面中央に描かれている二人は、 左がレオナルドをモデルにしたプラトンで、 右がアリストテレスです。
そして手前で机に肘を置いて考えているのが、 ミケランジェロをモデルにしたヘラクレイストで、 右端の柱の隅でこちらを見ているのが、ラファエロです。
画面上部の左右の彫刻には、 右がミネルヴァで左がアポロンと異教の神々が描かれています。
このような教皇の居室にもかかわらず、 古代ギリシャの賢人などが描かれているのも、 珍しかったようですね。
この作品は大絶賛されラファエロの代表作になります。
その後ローマで数々の作品を残し、名声を集めるのですが、 37歳と言う若さでなくなります。
数多くいるガールフレンドの中の本命、マルガリータ・ ルティとの過度な情事が原因で、亡くなったとされていますが、 本当の事は分かっていません。
【まとめ】
みなさんいかがでしたか?
ラファエロは人として凄く魅力のある人物だったようですね。
誰に対しても優しく、 社交的で人を引きつけ引っ張って行く経営の才能もあったため、 弟子も多くいました。
また野心家で権力欲もあったようで、教皇の近侍になって枢機卿( 教皇の最高顧問)の地位も狙っていたようです。
そしてなんと言ってもラファエロの特徴は、 人の優れたところを吸収して昇華させる天才でしたね。
では今回はこのへんで終わりたいと思います。
最後まで読んでくれてありがとうございます。
mars
またねー
参考資料