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画家紹介|クロード・モネ|印象派の代表|生涯や作品をわかりやすく解説

画家紹介|クロード・モネ|印象派の代表|生涯や作品をわかりやすく解説

mars
どうもこんにちは画家のマルスです。
今回は画家のクロード・モネの生涯と、作品たちを解説していくよ。

ノース
印象派の画家といえば、モネだわさ。

mars
作者の人物像がわかると、その人の作品を見るのがさらにおもしろくなるので、ぜひ最後まで読んでみてね。

ノース
印象派のことが詳しく知りたい人は、コッチの記事を読んでみるだわさ。⤵︎ ︎

 【クロード・モネ】の生い立ち

少年【モネ】カリカチュアで一財産築く

モネは、1840年1月14日にパリに、次男として生まれます。
両親は食料品店を営んでおり、比較的中流層の暮らしをしていました。
しかし、モネが5歳の時に、店の経営が傾き、一家は親戚の家をたよって港町のル・アーヴルに引っ越しました。
その町で少年期を過ごしたモネですが、学校にはあまり行かなかったようです。

mars
「よく学校をサボっていた」と後にモネ本人が言っていたんだよ。
学校嫌いのモネでしたが、絵の才能は子供の頃から凄いものでした。
16歳の頃には、著名人を膨張して描く「カリカチュア」を売って、人財産築くほどでした。

mars
モネは、1枚20フランで売っていたんだよ。

ノース
20フランて、日本円でいくら位だわさ。σ(∵`)?

mars
この時代は20フラン2万円くらいだね。
モネは結局200万円近く稼いだと言われているよ。

ノース
16歳で凄いだわさ。Σ(゚Д゚)スゲェ!!
このカリカチュアがきっかけで、後のモネの師匠となるブーダンと出会います。

【少年モネ】が描いた【カリカチュア】紹介

作品名 「葉巻をくわえたダンディ」
製作年 1857年
所蔵 マルモッタン美術館、パリ
作品名 「ボルドー・ワイン」
製作年 1857年
所蔵 マルモッタン美術館、パリ
作品名 「何人もの人物」
製作年 1858年
所蔵 マルモッタン美術館、パリ

モネの師匠|風景画家【ブーダン】

モネのカリカチュアを飾っていた額縁店で、「空の王者」と言われていた風景画家ブーダンの目に、彼の作品がとまりました。
ブーダンに見出されたモネは、ブーダンと一緒に外に出て、本格的な絵画をやることになりました。

mars
ブーダンにさそわれた最初は、モネは渋っていたんだよ、でもブーダンの熱意に負けてしぶしぶついて行くことになったんだ。
モネは、外に出て風景の一瞬一瞬を描いていくという絵画に魅力を感じ、生涯をかけて追い続けることになります。
作者 モネ
作品名 「ルエルの眺め」
製作年 1858年
所蔵 丸沼芸術の森、朝霞

【ウジェーヌ・ブーダン】1824~1898

ブーダンは、師匠のクールベから「空を知っているのは君だけだ」と言われ絶賛された。
ル・アーヴルの文具店も営んでいた。
ほぼ独学で絵を学び、風景画が得意だった。

生涯の友となる【ルノワール】【シスレー】

1862年、モネは兵役を免除されてパリに戻ってきました。
モネグレールという画家の主催する画塾に入りました。
そこでルノワールシスレーバジールらと意気投合し、一緒に野外制作したり、お互いにモデルになりあったりして、腕を磨きました。
作者 モネ
作品名 「ラ・グルヌイエール」
製作年 1869年
所蔵 メトロポリタン美術館、ニューヨーク
作者 ルノワール
作品名 「ラ・グルヌイエール」
製作年 1869年
所蔵 ストックホルム国立美術館、ストックホルム

mars
このふたつの作品は、モネとルノワールが一緒に描いたんだよ。

ノース
ほんとに仲が良かったのね。

mars
この「ラ・グルヌイエール」は、「印象派の誕生の瞬間」と言われているんだよ。
印象派の画家たちは、なかなか認めてもらえず「ヘボ絵描き」と罵られていました。
そんな中でも、協力してグループ展を開くなどして、困難を乗り越えました。
特にモネルノワールは仲が良く、一緒に南仏に旅行に行ったり、田舎に引きこもっているセザンヌを訪ねたりしていました。

秘密の妻子【カミューとジャン】

モネには、モデルの恋人カミーユがいました。
モネは、このことを家族には内緒にしていました。
しかし、1867年にカミーユが身ごもり、家族に伝えなければいけないことになりました。
それを聞いたモネの父親は激怒して、モネがパリに戻ることを許しませんでした。
モネが正式にカミーユと結婚できたのは、3年後の1870年でした。
作者 モネ
作品名 「ゆりかごの中のジャン・モネ」
製作年 1867年
所蔵 ナショナルギャラリー、ワシントン
作者 モネ
作品名 「アルジャントゥイユのひなげし」
製作年 1873年
所蔵 オルセー美術館、パリ

mars
子煩悩だったモネは、奥さんと息子の絵をたくさん描いていたんだよ。

ノース
家族思いでいいだわさ(^^)

mars
でも子供が生まれたのに絵が売れないので、生活はすごく苦しかったんだよ。

ノース
大変だわさ。(・ω・;|||

【カミーユ】との別れ

カミーユは、次男のミシェルを産んだ後、病に倒れ1879年に帰らぬ人となってしまいました。
悲しむモネが、「質屋に行って、質草(質に置く品)になっている妻のペンダントを出して貰えませんか?あれは妻の唯一の思い出の品で最後にどうしても首にかけてやりたいのです。」と支援者の1人にお願いする手紙が残っています。
作者 モネ
作品名 「死の床のカミーユ」
製作年 1879年
所蔵 オルセー美術館、パリ

ノース
ほんとに奥さんのことを思っていたのね。(ToT)

アメリカ人に【連作】で初めて、認められる

1890年代から描き始めた、連作シリーズは大評判となりました。
作者 モネ
作品名 「積み藁」シリーズ
製作年 1891年発表
「積み藁」に続いて「ルーアン大聖堂」シリーズも大成功します。
作品名 「ルーアン大聖堂、扉口(曇り日)」
製作年 1892年
所蔵 オルセー美術館、パリ
作品名 「ルーアン大聖堂、扉口(朝)」
製作年 1893年
所蔵 バイエラー財団美術館、バーゼル
作品名 「ルーアン大聖堂」
製作年 1893年
所蔵 オルセー美術館、パリ
作品名 「ルーアン大聖堂、夜明けの扉口とアルバン塔」
製作年 1893年
所蔵 ボストン美術館、ボストン

mars
時間や天候が違うだけで全然印象が違うね。この連作シリーズは、特にアメリカ人のコレクターに人気があったんだよ。

ノース
最初にモネの才能を認めたのは、パリの人たちじゃなかったのね。

mars
そうなんだ、でもモネはアメリカ人の美的感覚を信じてなかったんだ、だから画商のデュラン=リュエルが次々と新作をアメリカに持っていくのを、良く思っていなかったんだよ。

ノース
パリの批評家たちに認めさせるために頑張っていたのに、複雑だわさ。(๑•́ ₃ •̀๑)

【白内障】を乗り越えて、大壁画【睡蓮】制作

1914年に長男のジャンを病気で失い、仲間の中で最後の生き残りのルノワールも、1919年に亡くなり、白内障も急速に悪化していき、モネは絶望の淵に立たされていました。
そんなモネに、古くからの友人で首相も務めたクレマンソーが、白内障の手術を勧め、装飾画「睡蓮」の国家寄贈計画を提案します。
当時、非常に困難で苦痛も伴う、白内障の手術を乗り越えたモネは、最後の作品「睡蓮」に全精力を注ぎました。
白内障手術後の、絶対安静のモネ

大装飾画【睡蓮】国に寄贈される

モネの死の翌年に、総延長80メートルを超える大装飾画「睡蓮」が、クレマンソーの尽力により、オランジュリー美術館の特別展示室に収められました。
作者 モネ
作品名 「睡蓮」
製作年 1920~26年
所蔵 オランジュリー美術館、パリ

まとめ

mars
どうでしたか皆さん。
今回の記事を読むと、モネが「印象派の代表」と言われるのがわかりますね。

ノース
認められるまでが長かったわさ。(;´Д`)

mars
画家の人生や考え方がわかると、その作品を見るのがさらに楽しくなりますよね。

ノース
モネの作品を見る印象がだいぶ変わっただわさ。

mars
最後まで読んでくれてありがとうございました。
ではまた別の記事でお会いしましょう。
ばいばい、またね~

ノース
ばいなら。
参考書籍
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