おすすめ記事
【印象派】とは何?その時代背景や特徴は?画家たちと絵画を紹介!

【印象派】とは何?その時代背景や特徴は?画家たちと絵画を紹介!



mars
どうもこんにちはマルスです。
みなさん「印象派」て聞いた事はあるけど、一言で説明するのは難しいのではないでしょうか?
今回はそんな印象派が何故できたのか、その時代背景やどのような芸術家が活動していたのか、など分かりやすく簡単に説明していきたいと思います。
その前の時代の美術が知りたい人は、この記事を読んでね。

【いままでの美術に反抗!】

今でこそ高い人気を誇る印象派ですが、活動を始めた当初は激しく批判されました。
彼らが登場した19世紀後半のフランスでは、王立美術アカデミーが権威を持ち、唯一の発表の場だった国家主催の公募展(サロン)の審査基準もアカデミーの考えが絶対でした。
そんな中、その審査基準や制度に疑問を持った印象派は、独自の展覧会を開くようになります。

印象派の画家やその作品たち!

【印象派の指導者!マネ】

そんな印象派の先駆者となり、指導者となったのが「マネ」ですね。
印象派展覧会は1874年頃から1886年まで計8回開催されますが、彼はそれよりも早くからアカデミーに対抗する作品を発表しています。
作者 エドゥアール・マネ
作品名 「草上の昼食」
製作年 1863年
所蔵 オルセー美術館、パリ
この上の彼の作品は、当時の遊びとして流行った、娼婦を連れてピクニックをする絵で、裸体像は宗教画と神話画のみにおいて描くという暗黙のルールを破りました。
当然風紀に反するという事で、大問題となりましたが、印象派たちには、自由なテーマを描いたマネを見て大きな衝撃を受けます。
その後マネは指導者的存在となり、彼と印象派は古典的な宗教画や歴史画ではなく、一般的な生活を主題にします。

【筆触分割!モネ】

「印象派」という名前は、自分達で開いたプライベートな展示会「印象派展」、に出品されたモネの下の作品「印象、日の出」を見た批評家ルイ・ルロワが「この絵は印象しか描いていない」とやじを飛ばしたことからそう言われるようになりました。
作者 クロード・モネ
作品名 「印象、日の出」
製作年 1872年
所蔵 マルモッタン美術館、パリ
パッと見ると何が描かれているかわからない彼の絵は、斬新過ぎて批評が多い作品でした。
しかしこの絵は、戸外での光の魅力にとりつかれたモネの編み出した技法で、当時の技法では色を塗り重ねるしかなかったのですが、混色が進めばすほど色が暗くなってしまいます。
この問題を解決するために生み出されたのが「筆触分割(色彩分割)」という技法で、原色のみ使用し色を重ねるのではなく、細かな筆で隣同士に配置する塗り方です。
近くで見ると色の集合体にしか見えませんが、遠目で見ると色が混ざって見えます。
こうすることで色の鮮やかさを残しました。
こういった技法を使うもう一つの理由は、戸外でのスケッチでは、光の移り変わりが早いため早く描がかなければならず、このような荒々しい画風はそういった面でもちょうどよかったのですね。

【日本美術!ジャポニスム】

19世紀半頃、日本の開国をきっかけに、ヨーロッパ全土では日本ブームがおきます。
長年鎖国していた日本への関心は高く、西洋美術とは全く異なっていた日本美術に、当時の画家たちは大きな衝撃を受けました。
作者 クロード・モネ
作品名 「ラ・ジャポネーズ」
製作年 1876年
所蔵 ボストン美術館
この上の絵は、「印象派展」では一番の高値が付いた人気作で、背景から衣装、小物まで日本風に描かれています。
モネは風景画では浮世絵から構図をまねるなどジャポニスムの代表的な画家でした。
このように日本美術は、当時の画家たちに大きな影響を与えました。
ゴッホは400点以上もの浮世絵を集めていたようです。

【色鮮やかな人物画!ルノワール】

「筆触分割」の技法をあつかうモネに特に賛同的だったのがルノワールでした。
彼もモネと同じく筆触分割によって描きました。
しかし彼はモネの風景画とは違い、人物の描写を追求しました。
作者 ピエール・オーギュスト・ルノワール
作品名 「陽光を浴びる裸婦」
製作年 1875〜76年
所蔵 オルセー美術館、パリ
彼の作品は「虹色のパレット」と呼ばれた鮮やかな色彩と筆触分割によって描かれました。
当時の人物像は、目の前にいるかのようにリアルに描くのが普通だったのに対して、彼の作品、上の絵を見てもらえれば分かるように、立体感をつける陰影の表現にさえ黒を使わずに描きました。
彼の作品はそういった写実性を欠いていたため、厳しい批判にさらされ「斑点が浮き出た腐敗しつつある肉の塊」と酷評でした。
彼の絵が認められるのは、50歳後半の事でした。

【我が道を行く!印象派とはことなる作風!】

1874年から始まった印象派展は、1886年を最後に計8回開催されました。
回を重ねるごとに意見の対立が激しくなり、主に色彩理論を重視するモネと、印象派とは異なる新しい作風を持ったドガによるものでした。
印象派は筆触分割を使い、戸外で光の輝く色彩に着目したのに対し、ドガは基本的に筆触分割を使わず、さらに戸外で風景画を制作することもなく、むしろ室内のスポットライトの光に注目していました。
彼は異色の立ち位置でしたが、削り出しの技法に長け、その技では彼の横に並ぶものはいませんでした。
削り出しの技法とは、あらかじめ絵具を多層に塗ったキャンバスをナイフやペンで削り出して表現する方法。
作者 エドガー・ドガ
作品名 「エトワール」
製造 1876年頃
所蔵 オルセー美術館、パリ
この上の絵は「踊り子の画家」と呼ばれたドガの代表作で、薄暗いステージの上でスポットライトに照らされて踊る少女です。
少女の後ろには、黒いスーツを着た紳士の姿があり、パトロンを必要としたバレエの厳しい世界の現実を描いています。

【女性画家たちも活躍!】

印象派展には、数名の女性画家たちもいました。
ベルト・モリゾやエヴァ・ゴンザレス、そしてカサットがいました。
アメリカ出身のカサットは、当時の女性画家としては珍しく、正規の美術学校に入るのを許された画家で、フィラデルフィアの美術アカデミーを経てパリにやってきました。
ドガとの出会いで、約4回印象派展に出品しました。
作者 メアリー・カサット
作品名 「青い肘掛け椅子の上の少女」
製作年 1878年
所蔵 ナショナル・ギャラリー、ワシントン
上の絵は、親愛を主題にした作品を得意としていたカサットらしく、少女の何気ない動作を描いています。
この絵は印象派よりもドガの作風に近いため、サロンでは不評で、パリ万博への出展は認められませんでした。

【まとめ】

みなさんどうでしたか?
当時の画家たちは、移ろう光に魅了され戸外へ出て作品を描くようになり、新たな筆触分割という技法ができましたね。
ちなみにこの時代画家たちが戸外へ出るようになったきっかけの一つに、携帯用の絵の具が開発されたのが大きな原因です。
アカデミーの考えに縛られず、自由な絵画が生まれた時代でもありましたね。
ではでは今回はこのへんで終わりたいと思います。
最後まで読んでくれてありがとうございました。

mars
またねー
参考資料



おすすめの記事