【初期キリスト教美術】特徴は?どのような作品があったのか分かりやすく解説!
mars
どうもこんにちはマルスです。
突然ですがみなさんは神を信じますか?
いきなりごめんなさい、別に危ない宗教の勧誘ではありません。
3世紀〜15世紀半頃までは、 神様が本当にいると信じられていたんですね。
そしてこの時代、字を読める人があまりいてませんでした。
なので宗教を広めるのに、絵画が1番有効だったんですね。
そのため神の教えを広める、美術が発展した時代とも言えます。
今回はそんな時代にスポットをあてて、 分かりやすく記事を書いてみました。
その前の時代の時代の「エトルリア・ローマ美術」が気になる人は、こちらの記事を読んでね。
この記事の目次
【キリスト教文化の始まり】
1世紀にユダヤ教から分離したキリスト教は、 同じ年にイタリア半島に伝えられ、 ローマ帝国内で急速に広まっていきました。
その頃のローマ帝国では、多神教が信じられていました。
皇帝自身も、現人神として民衆に崇拝させていたため、 一神教のキリスト教が広まるに連れて、 自分自身の否定に繋がる危険があると思い、 激しい弾圧が始まります。
広大な領土を持っていたローマ帝国は、弱体化するにつれ、 分割統治が進み、 キリスト教の拡大を止める事ができませんでした。
そして395年のテオドシウスの死を境に、東西に分裂します。
西ローマ帝国はゲルマン民族によって5世紀に滅亡します。
部族ごとに国家を建設したゲルマン系民族は、 その全てがキリスト教となり、 ヨーロッパは中世と呼ばれるキリスト教文化の長い時代に突入して いきました。
【具像崇拝禁止時代の、初期キリスト教美術】
キリスト教は具像崇拝が禁止されていたため、 イエスの姿を描いてはいけません。
そのためイエスの代わりに、魚の絵や羊飼いなどに例えて、 描かれました。
「イエスのシンボル」5世紀 パンと魚の奇跡の教会、タブハ(ガリア)
ギリシャ語で「イエス・キリスト、救い主、主の子」 の頭文字を繋げると「魚」を意味する「イクティス」になるため、 よく魚に例えられました。
「善き羊飼い」5世紀中頃 ガッラ・プラチディア廟、ラヴェンナ(イタリア)
「ヨハネによる福音書」でキリストが自らを「良い羊飼い」 と呼んでいるため、例えられたと言われています。
この時代、字を読める人々があまりいなかったため、 布教に絵画が多く使われました。
その後聖書にある場面を絵にするのが主流になっていきます。
【初期キリスト教・ビザンティン美術!「イコン」とは?】
一方、ビザンティン帝国と呼ばれた、東ローマ帝国では、 教会と皇帝の関係が良かったため、権力のバランスが保たれ、 15世紀まで続きます。
この国の美術品では、人礼拝をするための小型板絵による聖像画「 イコン」と呼び、ビザンティン美術の特徴でもあります。
聖像やモザイク壁画なども盛んでした。
この国内でも具像崇拝は禁止されていたので論争は絶えず、 何度もイコノクラスム(聖像破壊運動)が起こります。
9世紀には「イコン=聖なる存在の器」 と解釈され、それらの作品はようやく正当化され主流になりました。
「失われたマンリディオン(自印聖像)に基づく模写」 12世紀後半 トレチャコフ美術館、モスクワ
イエスの伝説に基づくイコン。
【初期キリスト教・ケルト美術】
ヨーロッパの鉄器文明の初めの頃に広めた民族がケルト人です。
もともとは中央アジアに起源をもつ、渡来系インド・ ヨーロッパ語族、ヨーロッパに定住後は地域差が大きく、 ケルト人はふたつに別れた。
1つ目がブリテン(現在のイギリス)とアイルランドに渡った「 島のケルト」と呼ばれた。
2つ目が島に渡らずに大陸に残った「大陸のケルト」 に大別されます。
「大陸のケルト」のうち、アペニン山脈から現在のフランス、 スイス一帯に、住んでいた民族の事をローマ人から「ガリア人」 と呼ばれ、カエサル(シーザー)などから征服されて、 ローマ化していきます。
「島のケルト」「大陸のケルト」ともに、多神教でしたが、4、 5世紀頃からキリスト教化が進みますが、 彼ら固有の様式上の特徴は残ります。
最も特徴的なものが、自然崇拝を土俵としている、 動物や植物の文様や、1筆書きの組紐や、渦巻模様、 この3つがケルトの代表的な文様ですね。
「ヴルダグの十字架」10世紀 モナスターボイス(アイルランド)
十字架の石柱には、多神教的な人や動物が掘られています。
「タラ・ブローチ」 8世紀 アイルランド国立博物館、ダブリン
細かな渦巻模様が特徴的。
「(リンディスファーンの副音書)のカーペット・ページ」 698年頃 大英図書館、ロンドン
渦巻と組紐による文様が描かれています。
ケルト美術の中でも特に素晴らしいのが、高い装飾性にあります。
聖書の扉絵の装飾や、 章の最初の文字を図案化したイニシャル装飾、 署名の代わりに姓名の頭文字を組み合わせるモノグラム装飾などが 、キリスト教美術の中でも、特に異彩を放っています。
【聖堂建築が始まる】
313年に、 当時のローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認すると、 「ミラノ勅令」を受け、 キリスト教徒達は彼らのための聖堂建築を作りました。
彼らは聖堂作りに「バシリカ式」と「集中式」を採用しました。
「サンタ・マリア・マッジョーレ教会内部」5世紀前半 ローマ
「バシリカ式」聖堂は、礼拝のための基本形となる。 シンプルな長方形が特徴ですね。
「アーヘン宮廷礼拝堂内部」(現在のアーヘン大聖堂) 805年献堂 796年着工・805年献堂 アーヘン(ドイツ)
「集中式」聖堂は、 洗礼に用いる洗礼堂としての基本形になりました。
円形、ラテン十字形、多角形などがあります。
ちなみに上の写真は正八角形の集中式プランですね。
【ラヴェンナ美術のモザイク画】
5世紀の初め頃、西ローマ皇帝ホノリウスは、 イタリアの東海岸にある、都市ラヴェンナへ都を移します。
西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン系の東ゴート王国の首都になる。
その後東ローマ帝国に占領され、第2の政府をここに置きました。
ラヴェンナの芸術の特徴としては、ガッラ・ プラチディア廟やサンヴィターレ聖堂に代表されるモザイク画です 。
「ガッラ・プラチディア廟内部」5世紀 ラヴェンナ(イタリア)
植物や星空のモザイク装飾が施されています。
「ユスティニアヌス帝と廷臣たち」547年 サン・ヴィターレ聖堂、ラヴェンナ(イタリア)
モザイク装飾で東ローマ皇帝の威光を描写されています。
色の付いた石やガラスを小さく砕いたもの「テッセラ」 を漆喰が塗られた壁に埋め込みながら描いていく技法の事を「 モザイク画」と言います。
色彩原料の石を粉にせずにそのまま使うので、発色が良く、 太陽光による変色もほとんど起きません。
デメリットとしては、細かな表現には向かず、 石やガラスが壁に半分しか入っていないため、 地震などの揺れに弱いですね。
そしてなんと言ってもコスパが非常に悪いですね。
色彩原料の石を細かく砕いて、粉(顔料) にして薄く伸ばす他の技法と違い、 石をそのまま使うのでコストが物凄くかかりました。
そのため時代が経つにつれ、徐々に無くなっていきました。
【まとめ】
どうでしたか?
美術品の時代背景や作られた意味などを知ると、 凄く美術鑑賞がたのしくなりますよね。
今回は初期キリスト教時代にスポットをあてて見たのですが、 神様にかかわる美術が特徴的でしたね。
この記事がみなさんの役に立つと、凄く嬉しいです。
ではまた別の記事でお会いしましょう。
mars
またねー
参考資料