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「印象派」の画家たちの歴史!「印象派」が認められるまでの歩みをわかりやすく解説!

「印象派」の画家たちの歴史!「印象派」が認められるまでの歩みをわかりやすく解説!



mars
どうもこんにちは画家のマルスです。
今回は印象派の画家たちが歩んできた道を解説していくよ。
印象派がどのような改革をしたかは、知っているよね?
知らない人はこの記事を読んでみてね⤵︎ ︎

ノース
当時、軽視されていた印象主義を認めさせたんだよね?

mars
そうなんだ、でも具体的にどんなことをしてきたか、印象派の人々のストーリーは、知らない人が多いと思うんだ。

ノース
知らないし、すごく知りたいだわさ( ˙o˙ )

mars
今回は、ずっと認められなかった印象派の人達が、どのような道を歩んで、印象派の絵が認められたのか、わかりやすく解説していくよ。

「印象派」の歩み・その①「出会い」「友情」「助け合い」

1859年4月、モネが22歳の時に絵の勉強のため、パリに出てきました。
そして、3年後に月謝が安くて有名だったグレールの画塾に入りました。

mars
このグレールの画塾は、月謝を安くしすぎて経営が困難になって閉鎖してしまうんだよ。

ノース
グレールは人が良かったのね。
このアトリエには、ルノワールバジールシスレーなど、後に印象派の最重要メンバーになる人物が多くいました。
みんなで外に制作に繰り出したり、お互いをモデルにしあって制作したりして、腕を磨きました。
作者 ルノワール
作品名 「バジールの所蔵」
製作年 1867年
作者 バジール
作品名 「ルノワールの所蔵」
製作年 1867年

mars
モネと一時期一緒に生活していたルノワールは、この貧乏だった頃のことを振り返って、「あんなに幸せだった時はなかった」と語っていたんだよ

ノース
ルノワールバジールの仲の良さがすごくわかるだわさ。
仲間の中でも特に裕福だったバジールは、モネの作品を高値で購入したり、広いアトリエを借りてモネルノワールに間貸ししたりして友達の窮状を助けました。
作者 バジール
作品名 「コンダミーヌ街の画家のアトリエ」
製作年 1870年
落選者展で一躍、新進画家たちのリーダー格に押し出されたマネをしたって、マネたちはカフェ、ゲルボーに集まりました。
この集まりでサロンに認められないので、自分たちで展覧会を開こうと計画します。
バティニョール派と呼ばれたこの集まりには、ドガピサロセザンヌも参加していました。
作者 ファンタン=ラトゥール
作品名 「バティニョール地区のアトリエ」
製作年 1870年
この1870年前半は、普仏戦争の敗戦とそれに続き内乱(パリ・コミューン)による激動の時代で、印象派の仲間たちはバラバラになり、バジールは戦死してしまいました。

mars
モネたちが、バジールの死について語った言葉は何ひとつ残ってないんだけど、それがかえって彼らの悲しみの深さを物語っていると言われているよ。
モネはロンドンに逃げて。ルノワールも疎開しました。
しかしマネはパリに残って、パリ・コミューン(民主共同体)を倒そうと政府軍が、7万人もの民衆を虐殺するという悲惨な光景を、リトグラフに残しました。
作者 マネ
作品名 「バリケード」
製作年 1871年
疎開したモネは、その疎開先のロンドンで印象派にとってとても重要な存在となる、画商デュラン=リュエルと出会います。
その後動乱が収まり、パリに画家たちが戻ってきてその悲しみを乗り越えるかのような、明るいパリの風景を次々に描きました。
そして来る1874年の第1回印象派展に向けて準備を開始しました。
作者 ルノワール
作品名 「ボン・ヌフ」
製作年 1872年

「印象派」の歩み・その②全8回の印象派展

印象派展 第1回
1874年 参加者30名
参加者=モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、ドガ、モリゾ、セザンヌ、etc..
作者 モネ
作品名 「印象、日の出」
モネのこの作品が「罵詈雑言」「誹謗中傷」「避難の嵐」に会います。
第2回
1876年 参加者18名
参加者=モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、ドガ、モリゾ、カイユボット、etc…
相変わらずボロカス言われます。
今回のターゲットは、ルノワール
作者 ルノワール
習作 「陽光の中の裸婦」

mars
上のルノワールの作品は評価されなかったけど、下のモネの作品は多少評価されたんだよ。

ノース
前回よりは一歩前進した感じだね。(^ ^)
作者 モネ
作品名 「ラ・ジャポネーズ」
第3回
1877年 参加者18名
参加者=モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、ドガ、モリゾ、セザンヌ、カイユボット、etc…
作者 ドガ
作品名 「エトワール」
作者 ルノワール
作品名 「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」
作者 モネ
作品名 「サン・ラザール駅」
全8回の中でも、質、メンツ共に最もハイクオリティでした。

mars
評論家からもだいぶ認知されてきたけど、それでもまだからかわれていたんだよ。
第4回
1879年 参加者16名
参加者=モネ、ピサロ、ドガ、カイユボット、ゴーギャン、etc…
サロンに出品する画家を許さないドガの影響で、今回は仲間がこぞって不参加になってしまいます。

mars
ドガは参加メンバーがサロンに出品して落選したら、印象派展が「落選者展」と思われることが怖かったんだよ。
でもみんな生活があるから、仕方なかったんだ。

ノース
複雑だわさ(。•́︿•̀。)
第5回
1880年 参加者18名
参加者=ピサロ、ドガ、モリゾ、カイユボット、ゴーギャン、etc…
再びドガの独裁で、名画なし。

mars
この回で参加を辞めたモネは後に、「へぼ絵描きが展示する会になってしまった」と罵ったんだよ。
第6回
1881年 参加者13名
参加者=ピサロ、ドガ、モリゾ、etc…
この回でもドカの独裁は続き、もはや「ドガと友人展」になってしまいました。

mars
展覧会の運営に尽力してきたカイユボットが、ついに愛想をつかして、参加を辞めたよ。
第7回
1882年 参加者9名
参加者=モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、モリゾ、カイユボット、ゴーギャン、etc…
この年、ヨーロッパ全体を襲った大恐慌のあおりを受けて、印象派を支え続けた画商のデュラン=リュエルも倒産の危機に立たされていました。
デュランを助けるために、ドカー派を退けて従来の仲間が再集結しました。
作者 ルノワール
作品名 「舟遊びの昼食」
第8回
1886年 参加者16名
参加者=ピサロ、ドガ、モリゾ、ゴーギャン、スーラ、etc…

作者 スーラ
作品名 「グランド・ジャット島の日曜日の午後」
モネルノワールは、ピサロの推薦するスーラの参加に難色を示し、さらにプティ画廊主催の国際展に出品するために、参加しませんでした。
点描主義を掲げるスーラは、新時代の到来を告げ、印象派展は幕を閉じました。

mars
結局ドガとモネらの対立は、最後まで解消されなかったんだよ。

「印象派」の歩みその③「画商デュラン・リュエル」新天地アメリカへ

その後も印象派の環境はいっこうに変わらず、画家たちの経済上の困窮は日々深刻になっていくばかりでした。
そこで長年苦楽を共にしてきた画商デュラン=リュエルは、アメリカの市場開拓に乗り出しました。
当時アメリカは南北戦争を経て、急速な産業発展をして「お金が物を言う時代」に突入していました。
そこに目をつけたデュラン=リュエルは、長く不況の続くヨーロッパを離れ、新天地アメリカに賭けることにしました。
そしてニューヨークで開かれた印象派では、大きな成功をおさめ、有力な顧客の獲得にも成功します。

とうとう成功!「印象派」が認められる

デュラン=リュエルは、ニューヨーク支店を軌道にのせた後、再びパリで印象派の個展開催に力を注ぎ、「モネの近作展」でついに大成功をおさめました。
作者 モネ
作品名 「積み藁」
製作年 1891年発表

mars
この作品は連作で、上の絵はその一部だよ。
1892年5月には、ルノワールの個展が大好評になり、低迷期を脱出しました。
1895年に開いた大展覧会では、再びモネが大成功をおさめました。
作者 モネ
作品名 「ルーアン大聖堂」
製作年 1893年
1895年、セザンヌが開いた個展は、仲間たちをうならせ、再評価されるようになります。
しかしモリゾシスレーたちのように、成功を見届けられず亡くなった画家たちもいました。

「印象派」ついに美術館入りを果たす

1894年、印象派の仲間で、友の貧困を助けるために作品を買い集めていたカイユボットが亡くなりました。
彼はこの印象派のコレクション67点を、国に寄贈すると遺言状を残しました。
遺言執行人に指名されたルノワールは、美術館と交渉しますが、手続きは難航し、粘り強く交渉を重ねた結果、38点のみ受け入れが決定しました。

mars
印象派の絵が初めて国に認められた瞬間なんだよ。

ノース
長かっただわさ(╥_╥)
この6年後の1900年、ルノワールマネデュラン=リュエルが、レジオン・ドヌール勲章(フランスの最高勲章)を授かりました。
モネは辞退しました。

まとめ

mars
みなさんどうでしたか?
印象派が認められるまでほんと長かったですね。

ノース
長すぎだわさ

mars
今回の記事で印象派がどのような道を歩んで認められたのか、わかってもらえるとうれしいです。
ではまた別の記事でお会いしましょう。
バイバイまたね~

ノース
ばいび~
参考書籍



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