【ジョルジュ・スーラ】点描画の生みの親|人生と絵画作品を解説 |印象派
どうもこんにちは、画家のマルスです。
今回は点描画を追求した、ジョルジュ・スーラの人生と絵画を解説していきます。
画家の人生や時代背景がわかると、絵画を見るのがさらに面白くなりますよ。
印象派のことが気になる人は、この記事も読んでみてね。⤵︎ ︎
この記事の目次
【ジョルジュ・スーラ】の人生早見表
1859年
12月2日、パリに生まれる。
1875年 16歳
私立デッサン学校に通う。
1876年 17歳
友達と一緒にアトリエを借りる。
1877年 18歳
エコール・デ・ボザールを受験するために、石膏デッサンを多数描
1878年 19歳
エコール・デ・ボザール入学。
アングルの弟子のレーマンのアトリエに所属する。
図書館で多くの本を読む。
1879年 20歳
兵役のために、1年間海辺のブレストに滞在する。
1880年21歳
約2年間、コンテによるデッサンに打ち込む。
1883年 24歳
「アニエールの水浴」が、サロンで落選する。
1884年 25歳
初のアンデパンダン展「アニエールの水浴」を出品する。
シニャックと知り合う。
1885年 26歳
「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を制作。
ピサロを紹介される。
1886年 27歳
第8回印象派展に出品する。
1890年 31歳
恋人のマドレーヌ・ノブロックが長男を出産する。
1891年 31歳
3月、第8回アンデパンダン展に、未完の「サーカス」を出品する
展示作業中に風邪が悪化する。
咽頭炎になり、9日後に死去。
死後に、恋人と息子の存在が明らかになる。
息子もスーラと同じ病気で2週間後に死去。
【ジョルジュ・スーラ】の人生
古典的なアカデミックからの脱却
スーラが画家を志した当時、印象派が革新的だとされ、世間を騒が
そんな中スーラは、アングルの弟子が教える、印象派とは真逆の古
しかし、2年ほどでアカデミズムに凝り固まった学校に嫌気がさし
科学と芸術の融合【点描画】を生み出す
兵役を終えて、パリに戻ったスーラは、図書館で色彩理論の本と出
白黒の濃淡の法則を体得したスーラは、その後色彩分割の研究も初
作者 スーラ
作品名 「画家の母」
製作年 1883年
所蔵 メトロポリタン美術館、ニューヨーク
めちゃめちゃリアルだんさ。
点で描かれてるように見えないだわさ。( ̥O▵O ̥)!!
【突然の死】と誰も知らなかった【妻子発覚】
1891年、スーラは風邪を引いていたにも関わらず、第8回アン
無理がたたって、風邪をこじらせて咽頭炎になり、短い闘病生活の
スーラの死後、誰にも話していなかった、恋人マドレーヌ・ノブロ
作者 スーラ
作品名 「化粧をする若い女性」
製作年 1888~90年
所蔵 コートールド美術研究所、ロンドン
この絵に描かれている左上の花瓶の絵は、もともとはスーラの自画像が描かれていたんだよ。
でも友人に「こんな所から画家が顔をのぞかせているのは、お笑いぐさだ」と言われ、花瓶に描きかえられたんだよ。
スーラの死後2週間後になんと、息子もスーラと同じ病にかかり死
現代美術に大きな影響を与えた
スーラの突然の死は、シニャックら芸術仲間に強い衝撃を与えまし
スーラを失った新印象派は、急速に輝きを失い、点描主義の終わり
しかし、そんな中シニャックがスーラの遺志を継ぎ、点描主義を推
そしてスーラの死の8年後、ついに点描法の理論と方法を明確に期
スーラの傑作作品集
作品名 「アニエールの水浴」
製作年 1884年
所蔵 ナショナルギャラリー、ロンドン
作品名 「グランド・ジャット島の日曜日の午後」
製作年 1884~86年
所蔵 シカゴ美術研究所、シカゴ
作品名 「サーカス」
製作年 1891年
所蔵 オルセー美術館、パリ
まとめ
みなさんどうでしたか?
スーラの点描画への情熱は、すごかったですよね。
こうして画家のことがわかると、絵画を見るのがさらに面白くなりますよね。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
またね~バイバイ。