狂人フィンセント・ファン・ゴッホ|壮絶な人生と絵画を解説|印 象派の画家
どうもこんにちは、画家のマルスです。
今回は、壮絶な人生を歩んだゴッホの人生と絵画作品を簡単に解説していきたいと思います。
そうだね、なにか闇を感じさせるイメージだよね。
今回の記事でゴッホのことがわかると、作品を見るのがさらに面白くなるよ。
この記事の目次
【ゴッホ】の人生早見表
1853年
3月30日、オランダ南部のズンデルトに生まれる。
1857年 4歳
弟のテオ誕生。
1869年 16歳
美術商のグーピル商会に就職する。
1872年 19歳
テオとの文通が始まる。
1873年 20歳
ロンドンに栄転するが、その地で大失恋を経験する。
1876年 23歳
グーピル商会を解雇される。
語学教師を経て、補助説教師になる。
1877年 24歳
神学校入学を目指して、受験勉強を始めるが挫折する。
1878年 25歳
炭坑の町ボリナージュに伝道師として単身乗り込むが、すぐに免職
1880年 27歳
画家になることを決意。
テオの仕送りが始まる。
1881年 28歳
いとこのケーに横恋慕するが、失恋。
1882年 29歳
娼婦のシーンと同棲を始めるが、周囲の反対に合い離別する。
1884年 31歳
マルホ・べーへマンと恋愛をするが反対され、彼女は自殺を図る。
1885年 32歳
父親が急死。
アントワープに移り住む。
1886年 33歳
突然パリに出て、テオと同居を始める。
ピサロらと交流をもつ。
1888年 35歳
南仏アルルに移る。
ゴーギャンと2ヶ月共同生活をするが、破綻。
耳きり事件へと発展する。
1889年 36歳
4月、テオがヨハンナと結婚する。
5月、ゴッホがサン・レミの療養院に入る。
1890年 37歳
1月、ヨハンナがフィンセントを出産する。
5月、オーヴェールに移る。
7月27日、拳銃で自殺を図り2日後に死去。
1891年
1月、テオ死去。
享年34歳。
短く壮絶な人生を走り抜けた【ゴッホ】の人生
幼い頃から気難しかったゴッホ
1853年、ゴッホはプロテスタントの牧師の家に生まれました。
ゴッホが生まれるちょうど1年前に、兄のフィンセントが生後すぐ
母親は宮廷の製本職人の家系の生まれで、神経症の遺伝を持ってい
ゴッホは、気質と見た目も母親そっくりだったんだよ。
兄のテオは父親似だったんだ。
他に3人の妹と末の弟の6人兄弟だったんだよ。
ゴッホは幼い頃から反抗心の強い子供で、しょっちゅう友達とケンカになり、孤立していました。
何度も失恋をくりかえす
1人目の失恋の相手は、下宿先の既婚者の娘でした。
その後、いとこのケーに惚れてしまい猛烈にアタックするのですが
さらには、子持で身ごもった娼婦のシーンを好きになり、同棲を始
画家になるまで色々な仕事に挑戦
意外にも真面目で優秀なゴッホ
16歳の時に画商の伯父の勧めで、美術商のグーピル商会ハーグ支
ゴッホは以外にも真面目に働き、仕事も優秀ですぐに頭角をあらわ
しかし、下宿先の既婚者の娘に恋をして失恋してしまい、そのショ
神の道に入り、伝道師にもなる
突然「お父さんと同じ牧師になる」と言いだし、神の道に進むこと
その後「ならば伝道師になる」と、自費で貧しい炭坑の町ボリナー
しかし、伝道師になったゴッホは、神の教えを真面目に実践した結
ほかにも、病人がいたら無償で看病し、薬代を払ってあげたり、子
しかし、そのような行き過ぎた慈善活動とゴッホの外見も手伝い、
ついに画家になることを決意する
1880年、ついに画家になることを決意します。
この年からテオの仕送りが始まりました。
1886年には、パリに出て画商をしていたテオの家に居候になり
ゴッホの初期の絵
作品名 「ジャガイモを食べる人々」
製作年 1885年
所蔵 ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム
パリでの作品
作品名 「モンマルトルからパリの眺め」
製作年 1886年
所蔵 バーゼル私立美術館、バーゼル
悲劇の地アルルでの生活がスタート
1888年2月、ゴッホは南方の地アルルに移り住み、芸術家の共
作者 ゴッホ
作品名 「黄色い家」
製作年 1888年
所蔵 ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム
ゴッホは居心地の良い空間にしようと、椅子を12脚も買ったり、
ゴーギャンとの共同生活で「耳切り事件」勃発!!
1888年10月、ゴーギャンがやって来ました。
ゴッホは「南方のアトリエの夢が1歩前進した」と喜びましたが、
夜に行われる芸術論議は、考え方がまったく正反対で、妥協の知ら
そしてついに12月23日、事件は起こりました。
ゴーギャンが夕食後に散歩に出かけた時、ゴッホがカミソリを手に
しかしゴーギャンに睨まれるとゴッホは怖気づいてその場から逃げ
家にもどったゴッホは、握っていたカミソリで自分の耳を削ぎ落と
その耳を何故か馴染みの娼婦に手渡しに行きました。
アルル中が大騒ぎ中、ゴッホは自宅に戻り血まみれのまま眠りまし
ゴーギャンは何をするか分からないゴッホに怯え、その日のうちに
療養所生活で膨大な数の傑作を残す
事件後、ゴッホはアルルの病院に収容され1月7日には退院しまし
アルルの住民たちの「頭のおかしい奴は監禁してほしい」という声
作者 ゴッホ
作品名 「郵便配達夫ルーランの肖像」
製作年 1888年
所蔵 クンストハウス美術館、ミュンヘン
その後サン・レミ療養院へ移りました。
ゴッホが少しでも結婚するテオの負担を軽くしたいと思い自分で決
しかし、入所後も激しい発作に見舞われましたが、「芸術は最良の
作者 ゴッホ
作品名 「糸杉と星の見える道」
製作年 1890年
所蔵 クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー
テオは、発作を繰り返す兄を案じて芸術に理解のある医師ガシェに
医師の住むオーヴェールに移り住むことになり、テオの住むパリか
作者 ゴッホ
作品名 「オーヴェールの教会」
製作年 1890年
所蔵 オルセー美術館、パリ
作者 ゴッホ
作品名 「医師ガシェの肖像」
製作年 1890年
所蔵 オルセー美術館、パリ
拳銃で自殺、テオの腕の中で逝く
オーヴェールに移り住んだゴッホは、パリで窮乏に喘ぐテオの姿を
長年自分のために、全面的に世話をしてくれたテオの負担の大きさ
ゴッホは自殺を図った2日後の7月29日に、テオの腕の中で亡く
享年37歳でした。
ゴッホの傑作絵画を紹介
作品名 「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」
製作年 1886年
所蔵 クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー
作品名 「アルルの跳ね橋」
製作年1888年
所蔵 クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー
作品名 「ひまわり」
製作年 1888年
所蔵 ナショナルギャラリー、ロンドン
作品名 「花咲く桃の木、マウフェの思い出」
製作年 1888年
所蔵 クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー
作品名 「ローヌ川の星月夜」
製作年 1888年
所蔵 オルセー美術館、パリ
作品名 「星月夜」
製作年 1889年
所蔵 ニューヨーク近代美術館、ニューヨーク
作者 ミレー
作品名 「昼寝」
製作年 1886年
所蔵 ボストン美術館、ボストン
作者 ゴッホ
作品名 「昼寝」
製作年 1889~90年
所蔵 オルセー美術館、パリ
そうだね、ゴッホは模写しても完全にオリジナル化しちゃうんだ。
すごい才能だよね。
まとめ
どうでしたかみなさん?
ゴッホは37年と短い人生でしたが、内容が壮絶でしたね。
こうして画家や時代背景がわかると、作品を見るのがさらに楽しくなるよね。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
また別の記事でお会いしましょう。
またね~バイバイ。