日本絵画!仏教絵画!?「飛鳥・奈良時代の日本絵画」にはどんな物があったの?特徴は?有名作品を紹介!
みなさん日本絵画の歴史はいつから始まったか知っていますか?
日本絵画の歴史は結構古くて、6世紀の中頃の飛鳥時代にできました。
今回はそんな「飛鳥・奈良時代の日本絵画は、どうゆうものに影響されていたのか?」「どのようなものがあったのか?」「どのような絵師がいたのか」など、わかり易く簡単に説明していきたいと思います。
この記事の目次
[古代国家の成立とともに日本絵画の歴史が始まった!]
飛鳥・奈良時代は、仏教が日本に伝わり日本が大きく変わっていった時代です。
仏教は、6世紀の中頃に百済(「くだら」4世紀前半〜660年、朝鮮半島の西〜南西部を治めていた国。「ひゃくさい」とも言う。)から伝わり、そのときに寺や仏像などの今までになかった、新しい造形美術や、技術、そしてその仏教の力を利用した、政治システムも伝えられました。
国を統治するために、日本絵画が始まったんですね。
[遣隋使と遣唐使の影響]
7世紀に入ると、「遣隋使・遣唐使(中国へ派遣された使節団)」が大陸の文化を日本に入れるようになり、日本の美術様式は大きく変化しました。
遣唐使は、669年~702年の間中止されるのですが、その間に輸入した美術の日本化が進みます。
702年に遣唐使が再開されると、華やかな最新の唐の文化を導入し続けました。
平城京や東大寺の造営が始まると、絵師たちの仕事があふれ、絵師たちは腕を振るい、その美術は国家プロジェクトにまで、発展しました。
8世紀には、役10~20年に1度の割合で遣唐使が派遣されました。
奈良の正倉院には、遣唐使達が持ち帰ったアジア各国の品と、外国製品に影響された日本の品が収蔵されているよ。
その品を見ると、どれだけ影響されていたかわかるヨン。
[飛鳥・奈良時代の作品達!]
[初唐に流行したインド風壁画]
仏教が日本に伝えられた飛鳥時代、聖徳太子達による仏教を中心にした、国造りのための「法隆寺」が建設されました。
下の絵を見ると、仏教と朝廷の権威を表していたのがすごくわかりますね。
法隆寺金堂壁画(ほうりゅうじこんどうへきが)第6号壁 「阿弥陀浄土図(あみだじょうどず)」
作者 不明
作品名 法隆寺金堂壁画 第6号壁 「阿弥陀浄土図」 摸本(原本は焼損) 重文
製作年 7世紀末
技法 土壁着色
サイズ 393.9x253cm
所蔵 法隆寺
法隆寺金堂壁画 内陣小壁第14号 「飛天図」 部分
作者 不明
作品名 法隆寺金堂壁画 内陣小壁第14号 「飛天図」 部分
製作年 7世紀末〜8世紀
技法 土壁着色
サイズ 70.3x136cm
所蔵 法隆寺
アジアを代表する壁画でしたが、1949年(昭和24)に、火災でひどく損傷してしまいました。
以前の様子は、模写や白黒写真でしか見れません。
[法隆寺金堂壁画の元ネタ!?]
明治時代に「岡倉天心(おかくらてんしん)」が、インドのアジャンタ石窟寺院を訪れたときに、法隆寺金堂壁画と似ていることに気づき、法隆寺の壁画がインドからの影響だと考えました。
アジャンタ石窟寺院 第1窟 「蓮華手菩薩(せんげしゅぼさつ)」
作者 不明
作品名 アジャンタ石窟寺院 第1窟 「蓮華手菩薩」
製作年 紀元前1~後5世紀
所蔵 インド
日本の菩薩たちに似てますね。
[古墳の終末期!謎だらけ!高松塚古墳壁画(たかまつづかこふんへが)!」
「高松塚古墳壁画」の内の西壁「女子群像」
作者 不明
作品名 「高松塚古墳壁画」の内の西壁「女子群像」 国宝
製作年 7世紀末~8世紀初期
技法 漆喰彩色
サイズ 先頭人物高37.5cm
所蔵 文部科学省所管
高松塚古墳は、石の壁の東西南北の壁や天井には、方位を司る「四神図(東西南北の四方を守る神の図)」や太陽、月、多数の男女などが描かれています。
ちなみに「古墳」とは、「古い墓」や「古人の墓」のことだよ。
そして、内部や石棺に、壁画が描かれている古墳のことを「装飾古墳」や「壁画古墳」と言うよ。
描かれたものには、幾何学模様や船や鳥、天文図や四神など色々なものが描かれたよ。
しかしこの古墳が、誰の墓だったのか、誰が壁画を描いたのか、壁画の意味など、わかっていないことが多いです。
高松塚古墳の中でも、人物群像の表現は唐の墳墓とよく似ていることから、法隆寺金堂の壁画の技法にも共通すると言う意見が有力のようです。
服装は当時の宮邸装飾に影響されたものだと考えられました。
そして「高句麗(紀元前1世紀頃〜668年に朝鮮半島北部を中心に治めていた国)」の古墳の壁画にも似ていました。
唐の文化が朝鮮半島や日本に、すごい影響を与えていたことがわかるよね。
[唐の影響!屏風絵!]
「鳥毛立女屏風(とりげりゅうじょのびょうぶ)
作者 不明
作品名 「鳥毛立女屏風(樹下美人図)」の第3扇(部分)
製作年 8世紀
技法 紙本着色
サイズ 135.8x56.0cm
所蔵 宮内庁正倉院事務所
この屏風絵は、唐で流行した樹下美人図(木の下に女性が立っている絵)の影響を受けた屏風絵です。
「玄宗皇帝」(唐の第6代皇帝、712年〜756年)に、特別に可愛がられていた楊貴妃を思わせる、ふくよかな顔立ちや眉の描き方などから、玄宗の晩年にあたる盛唐後期の流行を伝えるものとされています。
下地に使われているのが、752年に発行された日本の行政文書が使われていて、麻布に墨で描かれた女性の衣装や髪や樹木などは、当初日本産だったヤマドリの羽が貼られていました。
だから日本で制作されたとわかるんだね。
[まとめ]
みなさんどうでしたか?
日本絵画の始まりは、インドから中国、朝鮮半島経由で入ってきた仏教を取り入れた政治制度を、わかりやすく伝えるための美術から始まりましたね。
そして遣隋使や遣唐使らが、唐の最新の流行を持ち帰りつづけ、飛鳥・奈良時代の美術は国家プロジェクトにまで発展しましたね。
6世紀中頃からグローバル社会が始まっていたと思うとすごいよね。
その次代の絵画などを見ると、時代背景や流行り、その次代を生きた人々の考え方などがわかるので面白いですよね。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
また別の記事でお会いしましょう。