「ルネサンス美術」って何?特徴は?有名な画家と作品を分かりやすく解説!
mars
どうもこんにちはマルスです。
みなさんルネサンスは知っていますよね?
そうですあの有名な三大画家、ミケランジェロ、ラファエロ、 レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍した14世紀〜 16世紀の時代ですよね。
でもそんな三大巨匠は知っているけど「 ルネサンスが何故興ったのか?」「他の巨匠もいたの?」など、 詳しくは分からないと言う方も多いのではないでしょうか?
今回はそんな「ルネサンス美術」の時代背景や画家の活躍などを、 分かりやすく簡単に説明していきたいと思います。
その前の時代の「プロト・ルネサンス美術」が気になる人は、こちらの記事を読んでね。
この記事の目次
【ルネサンスはどうして興ったのか?】
そもそもルネサンスとはどう言う意味なのか?
「ルネサンス」とはフランス語で「再生」「復興」を意味します。
14世紀ヨーロッパで、 ローマ教皇の発案で十字軍が遠征で失敗し、 ローマ教皇の立場がなくなり、遠征で外の世界を見た十字軍は、 ローマ教皇に不信感を抱くようになっていきます。
教会の言う事が信じられないようになった人々は、 人間の理性や尊厳を尊重する「ヒューマニズム(人文主義)」 と言う価値観で、人間らしく生きようとします。
しかしキリスト教の教えの元で1000年以上たっているため、 人間らしい生き方が分かりませんでした。
そこで考えられたのが、人間らしく生きていたギリシャ・ ローマ時代の古典を研究する事でした。
この頃の文献を読む事によって、教会に洗脳される前の、 人間らしい生き方が取り戻せると考えられ、 古典研究が盛んに行われました。
と言う事でルネサンスとは、神が中心の考え方を辞め、 個性の尊重を求める文化運動の事ですね。
【何故ルネサンスはイタリアで興ったの?】
オスマン帝国に攻め込まれた、 ビザンツ帝国のギリシャ文化の知識人や学者が、 イタリアに亡命してきます。
この知識人や学者たちは、ギリシャ語が読めるので、 ギリシャの文献の研究が盛ん行われます。
この時代都市が乱立し、商業が盛んに行われたため、 商人による大富豪が生まれ、文化活動の支援者として、君主、 教会、富豪の三大パトロンが誕生します。
このような要因が偶然そろったので、 ルネサンスがイタリアで興ったのですね。
しかし、もともと教会の考え方を否定しする運動だったのですが、 教会も支援者に居たため、 教会批判ができずルネサンスは達成されませんでした。
その代わり個人の能力が最大限に発揮されたので、 多くの巨匠が生まれます。
ルネサンス美術時代の有名な画家達!
【遠近法の誕生!フィリッポ・ブルネレスキ】(1377〜1446)
ブルネレスキは最初、彫刻家でしたが、 1401年に洗礼堂の門扉の製作者を決めるコンクールに応募し、 最終審査でギベルディと競います。
このようにコンクールなどが盛んに行われたのも、 ルネサンス時代の特徴と言えるでしょう。
この時のテーマが旧約聖書の一場面の「イサクの犠牲」。
作者 ロレンツォ・ギベルディ(1378〜1455)
作品名 「イサクの犠牲」
製作年 1401年
所蔵 バルジェッロ国立美術館、フィレンツェ
作者 フィリッポ・ブルネレスキ
作品名 「イサクの犠牲」
製作年 1401年
所蔵 バルジェッロ国立美術館、フィレンツェ
ギベルディの作品は、枠にきれいに収まっているのに対し、 ブルネレスキの作品は枠からはみ出し立体的ですね。
この時選考委員は、 二人とも優勝として門扉の共同制作を提案しましたが、 ブルネレスキが一人での制作にこだわり、 最終的にギベルディに優勝を譲る形となります。
その後ブルネレスキは、彫刻家から建築家へと転職し、サンタ・ マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ(丸天井) や捨児養育院、サン・ロレンツォ聖堂などの建築を手掛け、 絶大な賞賛を得ます。
そして彼のもうひとつの功績として、「遠近法」の発明があります。
彼の遠近法の理論は、他の画家たちに大きな影響をあたえます。
特に有名なのが、画家マザッチョによる代表作「聖三位一体」 ですね。
作者 マザッチョ
作品名 「聖三位一体」
製作年 1425〜28年頃
所蔵 サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂、フィレンツェ
一点消失遠近法により、奥行きができています。
【マザッチョ】(マサッチオ)(1401〜1428年頃)
マザッチョは建築家のブルネレスキの遠近法を使い「聖三位一体」 と言う作品を残した事は、上で書いたのですが、その「 聖三位一体」をよく見てください、 神であるイエスよりも手前でひざまづく人の方が、 大きく描かれていますよね。
この時代神が絶対的な存在だったので、 このように神よりも人間が大きく描かれる事は、 絶大にありえませんでしたが、マザッチョはそんな事よりも、 現実性や空間性、感情表現などの表現を重視しました。
彼の描いた作品「アダムとイヴ(楽園追放)」 とマゾリーノが描いた「アダムとイヴ(原罪)」 を見比べてみてください。
作者 マザッチョ
作品名 「アダムとイヴ(楽園追放)」
製作年 1424〜27年頃
所蔵 サンタ・マリア・デル・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂、フィレンツェ
マゾリーノ・ダ・パニカーレ(1383〜1440年頃)
作者 マゾリーノ・ダ・パニカーレ
作品名 「アダムとイヴ(原罪)」
製作年 1424〜27年頃
所蔵 サンタ・マリア・デル・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂、フィレンツェ
どうですか?マゾリーノの方は無表情でまるで人形のようで、 奥行きも感じられませんよね?
それに比べてマザッチョの絵は、 悲しみが表情や身体全体で表現されているのが、よく分かります。
そして後の建物や天使、風景が遠近法を使い描かれています。
このようにマザッチョは今までにない、 現実的で感情的な絵を確立させ、 後の画家たちに多大なる影響をあたえました。
【サンドロ・ボッティチェリ】(1444〜1510)
「ボッティチェリ」とは通称で本名は「サンドロ・ディ・ マリアーノ・フィリペーゼ」と言い、 酒樽のように太っていた兄のあだ名が「ボッティチェロ( 小さな樽)」と呼ばれていたので、それを受け継いで「 ボッティチェリ」と呼ばれたとされています。
15歳で画家フィリッポ・リッピに弟子入りし、才能を開花させ、 1470年頃に独り立ちし、その後銀行業で財をなしていた、 メディチ家がパトロンとなり、深い関係を築いていきます。
作者 サンドロ・ボッティチェリ
作品名 「東方三博士の礼拝」
製作年 1475〜76年頃
所蔵 ウフィツィ美術館、フィレンツェ
上の絵はボッティチェリが、 メディチ家の人々を描き込んだもので、 キリストに礼拝する老博士がメディチで、 その右下の赤いマントをした博士が息子のピエロ、 そして一番左下に居るのが息子のジュリアーノです。
このように賢者たちを一般庶民に置き換えて、 描かれるのもルネサンス期の特徴ですね。
しかし一般庶民と言っても、 メディチ家のような裕福なお金持ち達だけでした。
ボッティチェリは、 メディチ家が主宰するサークルにも参加しており、 そこで文学者や哲学者達とキリスト教と多神教の古代ギリシャ・ ローマ文化の融合の研究がされていました。
そうして生まれた作品が、古代ギリシャ・ ローマの神々が描かれた、あの有名な「ヴィーナスの誕生」です。
作者 サンドロ・ボッティチェリ
作品名 「ヴィーナスの誕生」
製作年 1484年頃
所蔵 ウフィツィ美術館、フィレンツェ
しかし、1490年頃になると、 メディチ家や富豪達への政治批判が起き、 メディチ家はフィレンツェから追放され、 またフランス軍がイタリアに進行してくるなど、混乱が起きます。
その後修道士による神権政治が始まると、 今までの華やかな画風は無くなり、硬く宗教的な絵になっていき、 パトロン達もいない事も手伝ってか、 全く売れなくなっていきます。
【まとめ】
みなさんどうでしたか?
14世紀までの美術史は、神が絶対であり、 神をたたえるためだけの美術だったですよね。
しかしルネサンス期に入ると、まさに「個人」の時代に入り、 時代背景の助けもあったため個人が活躍できた時代でもあります。
そのためこの時代の美術史には、 画家の名前がたくさん出てくるのですね。
ルネサンス期は16世紀まで続くのですが、 その後大航海時代を迎え、宗教改革や内戦、 イタリア戦争などの色々な要因によって終わりを告げます。
では今回はこのへんで終わりたいと思います。
mars
またねー
参考資料