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日本絵画!明治時代の有名画家や作品たちと、その時代背景をやさしく解説!

日本絵画!明治時代の有名画家や作品たちと、その時代背景をやさしく解説!




 

mars
どうもこんにちわ、画家のマルスです
今回は明治時代の日本の絵画の歴史や個性豊かな絵師たち、その作品を解説していきたいと思います。
興味のある人は最後まで読んでみてください。
この時代の前の「江戸後期の日本絵画」が知りたい人はこちらの記事を読んでね。
では解説を始めていきたいと思います。
時代背景や作者のことがわかると絵画鑑賞がさらに面白くなるのでぜひ読んでみてください。

この記事の目次

明治時代はどのような時代だったのか?

 

長く続いた徳川の時代が終わり、1868年に元号が明治となりました。

 

明治になると西洋化が一層進み、高橋由一(たかはしゆいち)たちが独学で身につけた油絵を普及させよう活動を続けました。

 

1876年には工部美術学校が設立され、西洋の美術を積極的に学ぼうとする時代が訪れました。

 

そしてその後その反動のように、日本美術の見直しが起こります。

 

岡倉天心(おかくらてんしん)と日本美術院!

 

日本美術の優位性を説いた、フェノロサや岡倉天心によって日本画の革新が進められました。

 

フェノロサの意思を受け継いだ岡倉天心の考えに多くの日本画家は励まされました。

 

東京美術学校で指導をうけた若者たちは、岡倉天心とともにのちに日本美術院を設立する画家えと育ちます。

 

本格的に西洋画を導入させ、教育も始まる!

 

西洋絵画に憧れた人々が独学で身につけた時代がすぎると、西洋美術の本場、ヨーロッパで学んだ留学生たちが帰国し、画塾や美術学校を設立する。

 

こうして日本で初めて本格的に西洋画教育がスタートしました。

 

そして国家のための美術へ!

 

日清日露戦争に勝利した日本は、軍事面では世界の仲間入りを果たしたと考え美術での近代国家をめざして、国家主催の文展が開催され、国家が画家に権威や名声をあたえる制度が整えられました。

 

西洋式!自然主義とロマン主義ブーム!

 

人間の理想を求める自然主義や、個人の感情を重視して、神秘的なものを好むロマン主義が西洋から伝えられて、文学、美術ともに大流行します。

 

個性豊かな画家たちやその作品を紹介!

 

高橋由一(たかはしゆいち) 1828~94年

 

正式な西洋画教育を受けたことがない由一ですが、20代のころに西洋の石版画を見て大きな衝撃を受けると、1866年にワーグマン(イギリス人マンガ家・画家)と出会い、西洋画の技法を学びます。

そして45歳の時に画塾を、創設し48歳のときにフォンタネージ(イタリア人画家)に西洋画を学び、その後は西洋画の普及にまい進します。

豆腐(とうふ)

 

 


作者 高橋由一
作品名 「豆腐」
製作年 19世紀後半
技法 油彩、カンヴァス
サイズ 32.5x45.3cm
所蔵 金刀比羅宮

本作は、高橋由一が本格的に油絵を初めて10年目の作品です。

豆腐と焼き豆腐と油揚げという質感が全て異なるものを、油絵で描き分けて見せたかったのだとされています。

五姓田義松(ごせだよしまつ) 1855~1915年

 

洋画家の五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)の次男に生まれ、若くして明治天皇の御付画家になります。

しかしその後の義松の半生は、フランスに留学するも不遇のなかに自分の絵を追求し続けます。

老母図(ろうぼず)

 

 

作者 五姓田義松
作品名 「老母図」
製作年 1875年
技法 油彩、紙
サイズ 31.0x24.3cm
所蔵 神奈川県歴史博物館

本作は義松が20歳のときに、死の前日の母親を描いたものになります。

山本芳翠(やまもとほうすい) 1850~1906年

 

彼は京都で南画を学びその後、工部美術学校に入学します。

卒業後フランスに留学し、西洋画を学びます。

留学中に黒田清輝(くろだせいき)の才能を見出したことでも有名です。

帰国後は洋画の発展に務めました。

浦島(うらしま)

 

 

作者 山本芳翠
作品名 「浦島」
製作年 1893~95年
技法 油彩、カンヴァス
122.0x168.0cm
岐阜県美術館

1882年ごろから日本画や日本の伝統に目が向けられる時代の中、ロマン主義の影響もあり、日本の伝説や歴史を題材にした洋画家たちがふえました。

本作もその頃描かれたもので、浦島太郎の話が描かれています。

美しすぎて妙にグロテスクですね。

黒田清輝(くろだせいき) 1866~1924年

 

フランス留学後に東京美術学校西洋画科の教授となり、日本の美術教育の基礎を築きます。
洋画界の権威として明治の美術を主導します。

知・感・情(ち・かん・じょう)

作者 黒田清輝
作品名 「知・感・情」 重文
製作年 1899年
技法 油彩、カンヴァス
サイズ 180.6x99.8cm
所蔵 東京文化財研究所
日本人の洋画家が初めて日本女性をモデルに描いた裸体図。
1900年のパリ万博に出品されて銀牌を受賞しました。
本作の背景は金地にして裸体に日本画のような輪郭線をほどこすなどして、西洋人には日本的に、日本人には西洋的に見えるように描いたと言われます。

河鍋暁斎(かわなべきょうさい)

 

彼は7歳で歌川国芳に入門して10歳で駿河台狩野派の前村洞和(まえむらとうわ)の弟子になり、駿河台狩野家の当主・狩野洞白(かのうとうはく)に師事しました。そして19歳で修行を終える、まさに天才でした。

その後は正当な狩野派風の絵から浮世絵、仏画に行灯絵(行灯用の紙に描かれた絵)、劇画などまさに多種多様な絵を描いていました。
1876年には、フィラデルフィア万博へ出品するなどして海外でも評価が広まっていきました。
最晩年には、ドイツ人医師のエルヴィン・ベルツから「日本人最大の画家」と称されました。

新富座妖怪引幕(しんとみざようかいひきまく)

 

 

 

作者 河鍋暁斎

作品名 「新富座妖怪引幕」

製作年 1880年

技法 布墨画着色

サイズ 401.0x1704.0cm

所蔵 早稲田大学演劇博物館

 

戯作者の仮名垣魯文(かながきろぶん)が新富座に贈る、新作狂言の宣伝用の引幕です。

 

魯文から依頼を受けた暁斎は酒瓶2,3本を飲み干してから観客が見守る中、長編17mの大作をわずか4時間で描いたと言われます。

 

狩野芳崖(かのうほうがい) 1828〜88年

 

狩野派の家系に生まれたので、幼い頃から画業に励みます。

ツェノロサと出会い、岡倉天心らと日本画の革新と東京美術学校開校に尽力しました。

近代日本画家の父とも言われています。

非母観音(ひぼかんのん)

作者 狩野芳崖
作品名 「非母観音」 重文
製作年 1888年
技法 絹本着色
サイズ 195.8x86.1cm
所蔵 東京藝術大学

人々を病の苦しみから救うとされる楊柳観音(ようりゅうかんのん)が水瓶からしずくを垂らし、そこから子供が誕生している図。

命を吹き込まれている図像は、芳崖のオリジナルとせれ、自分の孫を描いたと言われています。

富岡鉄斎(とみおかてっさい) 1837~1924年

 

彼は幼少期から勉学に励んで、幕末には勤皇学者として活動します。

明治以降、40代からは学問と画業に専念し、生涯に1万点余りの作品を残しました。

「日本最大の文人」ともよばれますが、彼は「わしは儒者(儒教を学んで実践する者)であって画師ではない」と言っていました。

妙義山・瀞八丁図屏風(みょうぎさん・どろはっちょうずびょうぶ)

作者 富岡鉄斎
作品名 「妙義山・瀞八丁図屏風」
製作年 1906年
技法 絹本着色
サイズ 六曲一双/各168.5x377.2cm

彼はよく、自分で目にした風景に想像力を付け加えて造形したものを描きました。

本作に見られるアーチ型の山などがそうで、鉄斎の発想力は非凡でした。

小林清親(こばやしきよちか) 1847~1915年

 

明治維新後に画家をめざし、ほぼ独学で日本画や西洋画を学び20代後半でデビューします。

 

彼は浮世絵の技術に、西洋の技術の光と影の表現を取り込んだ「光線画」とよばれる風景画で一躍有名になりました。

 

高輪牛町朧月夜(たかなわうしまちおぼろづきよ)

 

 

作者 小林清親

作品名 「高輪牛町朧月夜」

製作年 1879年

技法 大判錦絵

サイズ 24.5x36.6cm

 

 

本作に描かれているのは、アメリカ製の機関車です。

 

当時日本で走っていたのはイギリス型だったので、清親はアメリカの石版画を参考に描いたのではないかとされます。

 

竹内栖鳳(たけうちせいほう) 1864〜1942年

 

戦前の京都画壇を代表する近代日本画の巨匠。

 

彼はヨーロッパを旅したときに、ターナーやコローから影響をうけてターナーの画風のような大気のゆらめきや、コローの情趣を表現しようと挑戦しました。

 

多くの弟子を育てたことでも有名です。

 

ベニスの月(べにすのつき)

 

 

作者 竹内栖鳳

作品名 「ベニスの月」

製作年 1904年

技法 絹本墨画

サイズ 220.0x174.0cm

所蔵 高島屋資料館

 

 

本作は高島屋から依頼されて描いた、ビロード友禅の壁掛けの原画です。

 

対象をリアルに描く西洋と、対象の本質を描き出す日本画の融合を巧みた作品になります。

 

青木繁(あおきしげる) 1882〜1911年

 

彼の父は学問で身を立たせようと厳しく育てますが、絵を描くのが好きだった繁は、16歳で上京します。

 

洋画塾・不同社へ通い、1900年に東京美術学校に入学します。

 

しかし目が出ることもなく困窮の末28歳という若さで亡くなりました。

 

海の幸(うみのさち)

 

 

作者 青木繁

作品名 「海の幸」 重文

製作年 1904年

技法 油彩、カンヴァス

サイズ 70.2x182.0cm

所蔵 石橋財団アーティゾン美術館(旧ブリジストン美術館)

 

 

恋人の福田たねや親友の坂本繁二郎らと、千葉県の布良海岸へ旅行へ行ったときに描いたものです。

 

中央やや右のこちらを向いた白い顔の女性は、作品制作の2年後にたねをモデルに描き直したとされます。

 

菱田春草(ひしだしゅんそう) 1874〜1911年

 

16歳で東京美術学校に入学し、岡倉天心の影響を強く受け日本美術院の創設にも参加します。

 

横山大観らと「朦朧体(もうろうたい)」とよばれる技法を生み出しました。

 

革新的な手法を使った作品に励みますが、36歳の若さで亡くなりました。

 

落葉(おちば)

 

 

作者 菱田春草

作品名 「落葉」 重文

製作年 1909年

技法 紙本着色

サイズ 六曲一双/各157.0x362.0cm

所蔵 永青文庫(熊本県立美術館寄り寄託)

 

 

写生をもとに描かれていますが、写実的な空間を描くだけでなく絵の面白みを優先されています。

 

すごくバランスのとれた作品ですね。

 

まとめ

 

最後まで読んでくれてありがとうございました。

 

今回の記事をまとめると。

 

    1. 岡倉天心とともに日本美術院設立する画家たち。
    2. 西洋にあこがれた人々が、本格的な西洋画を導入しました。
    3. 国家が画家に権威や名誉を与える制度が整えられました。
    4. 西洋から伝えられた自然主義とロマン主義の流行。

 

美術の時代背景や、作者たちのことがわかると作品を見るのがすごく楽しいですよね。

 

ではまた別の記事でお会いしましょう。

 

mars
またね~



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