日本絵画!安土桃山時代の美術!有名画家たちや絵画作品をわかりやすく解説!
今回は安土桃山時代の日本の美術を解説していきたいと思います。
興味がある人は、最後まで読んでみてください。
美術の時代背景がわかるとより一層面白くなりますよ。
安土桃山時代の美術より前の時代の美術が知りたい人はこちらの記事を読んでね。
この記事の目次
権力者の力を誇示する!豪華で派手な表現!
織田信長や豊臣秀吉が権力を握ったこの時代、安土城をはじめとする城郭や寺社などの大規模な建築物が次々に建てられた時代でした。
自分の力を誇りたい権力者たちが、贅の限りを尽くして、派手で豪華な建物を立てたり、内部装飾を優雅に飾り立てました。
建築主の力を見せつけるような作品が多いのが特徴です。
狩野派VS長谷川派!
このような建築物の内部装飾の障壁画を多数手がけたのが「狩野永徳(かのうえいとく)」です。
彼の画風が権力者たちの好みに一致して、信頼を得て狩野派を画壇の最大勢力としました。
それに対抗したのが「長谷川等伯(はせがわとうはく)」です。
長谷川等伯は一代で長谷川派を築き上げ、傑作を多く残しました。
エリート一家に生まれた天才!狩野永徳!
日本絵画史上最大の流派である狩野派を築いた「狩野元信(かのうもとのぶ」の孫として生まれます。
幼い頃からその才能を認められ、10才の頃には祖父に連れられて、将軍・足利義輝(あしかがよしてる)のもとに正月の挨拶に行ったことが知られています。
彼の力強く豪快な画風は、戦国時代の気風に合い、織田信長や豊臣秀吉らにすごく気に入られ、安土城や大阪城、聚楽第など桃山時代を代表する建物の中の、障壁画や屏風の装飾をイッテに引き受けました。
権力者たちは、こぞって日本一の絵師の狩野一派の絵で自分の建物を飾りたがりました。
しかし永徳とその一門が描いた多くの作品が、戦乱で建物と一緒になくなり、残っているものはわずかです。
熊登の田舎から出てきた苦労人!長谷川等伯!
彼は能登の生まれで、能登にいた頃は仏画や肖像画を描いていました。
その頃の彼は、「信春(のぶはる)」と名乗っていました。
30代の頃に家族と一緒に京に上京してきまおう。
そして様々な画に影響されて、自分の画風を確立していきます。
千利休と出会った頃からは、自称「雪舟(せっしゅう)」の後継者を名乗り、名前も「等伯」と改め長谷川派一門は、狩野派と競い合えるほどになっていきました。
後陽成天皇(ごようぜいてんのう)(第107代天皇)の仙洞御所の対屋の仕事では、狩野派ではなく長谷川派がその仕事を受注しますが、狩野派の策略でその仕事を奪われてしまいます。
永徳が亡くなったあとは、長谷川派が秀吉に重用され、秀吉が亡くなり弔うために建てられた、祥雲寺(現・智積院)客殿の障壁画などを手掛けます。
しかし千利休が亡くなり、後継ぎとして期待していた息子の「久蔵」も亡くなり、等伯が亡くなると長谷川派は、勢いをなくしていきます。
安土桃山時代の絵画作品たち!
洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)(上杉本)
作者 狩野永徳
作品名 「洛中洛外図屏風(上杉本)」 国宝
製作年 1565年
技法 紙本金地着色
サイズ 六曲一双/各160.4x365・2cm
所蔵 米沢市上杉博物館
狩野永徳の初期の作風を伝える作品。
将軍・足利義輝の発注によって描かれた作品でしたが、完成する前に義輝は亡くなり、完成した作品は織田信長によって上杉謙信に贈られました。
「洛」とは京都のことで、「洛中洛外」とは京都の市中郊外のことです。
風景画の要素も強く、当時の建物や祭りの様子、公家や武家、町人の様子などがわかります。
檜図屏風(ひのきずびょうぶ)
作者 狩野永徳
作品名 「檜図屏風」 国宝
製作年 1590年
技法 紙本金地着色
サイズ 四曲一双/各170.0x230・4cm
所蔵 東京国立博物館
権力者たちからつぎからつぎえと注文を受けていた永徳が生み出したのが、画面いっぱいに巨大なモチーフを描く「大画様式」でした。
この方法で描くと、画面が一気に埋まるので早く多数の、障壁画を制作することができました。
この方法は、長谷川等伯などの他の絵師たちにも影響を与えました。
この絵の注文主は、豊臣秀吉で永徳没年の作になります。
松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)
作者 長谷川等伯
作品名 「松林図屏風」 国宝
製作年 16世紀末
技法 紙本墨画
サイズ 六曲一双/各156.8x356.0cm
所蔵 東京国立博物館
この作品は、水墨画家として名高い、南宋の「牧谿(もっけい)」による「観音猿鶴図(かんのんえんかくず)」の影響された作品になります。
この作品は謎が多く、製作動機もわかっていませんし、もともとは屏風ではなく下絵、もしくは襖絵だったとも言われています。
印は後世の誰かが押したものですが、完成度の高さから等伯による作品とされています。
そして日本水墨画の最高傑作とも言われています。
南蛮屏風(なんばんびょうぶ)
作者 狩野内膳(かのうないぜん)
作品名 「南蛮屏風」 重文
製作年 16世紀末〜17世紀初期
技法 紙本金地着色
サイズ 六曲一双/各154・5x363.2cm
所蔵 神戸市立博物館
狩野内膳は、狩野松栄(かのうしょうえい)(狩野元信の息子で狩野永徳の父)に絵を学んで狩野姓を許され、徳川家の絵師になりました。
荒木村重(あらきむらしげ)の子・岩佐又兵衛(いわさまたべえ)の絵の師匠とも言われています。
風俗画に名作が多く残されています。
泰西王侯騎馬図(たいせいおうこうきばず)
作者 不明
作品名 「泰西王侯騎馬図」 重文
製作年 17世紀初期
技法 紙本金地着色
サイズ 四曲一集/166.2x460・4cm
所蔵 神戸市立博物館
この作品に描かれているのは、左から神聖ローマ皇帝ルドルフ2世、トルコ王、モスクワ大公、タタール汗(はん)です。
構図や陰影表現などの西洋の技法と、金箔押しや顔料などの日本の技法が融合した作品になります。
まとめ
みなさんどうでしたか?
安土桃山時代の美術のポイントは、
1 武将好みの、豪華で大きい派手な絵が多い。
2 南蛮貿易によって新しい文化が伝えられ、西洋の技法と日本の技法の融合。
3 狩野派勢力VS長谷川派勢力との戦い。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
また別の記事でお会いしましょう。
参考資料